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谷川俊太郎诗12首

星期一诗社 2024-01-10

入眠


遠くで鴉が鳴いている

かなりしつこく鳴いている

こんな夜中に何用か

どこかで洗濯機が唸っていて

天井から得体の知れぬパチパチいう音


家の外には黒い空間がひろがっている

いのちに満たされているはずなのに

それがVOIDという英語を思い出させる

(シカバネノカミガノビルツメガノビル)


いつから世界はこんな組み立てになったのだろう

眠れぬままに聞く夜中の音が心の中で

不条理な音楽になる


*


言いたいことはないのに

起き出して紙に語を並べるのは

言葉を石ころのように転がしておきたいから


氾濫する意味は暴力の前に無力だ

涙もそして

沈黙ももちろん

(タイジニカミガハエルツメガハエル)


だが言葉にひそむ静けさは

ときに笑いに

ときに無意味に

ときに歌に変装して

人をこの世の縁にいざなう…


*


深いオーガズムの記億に甦る世界が

この現実とは別次元に存在する

マグマのように


その坩堝の中で夢うつつに

人種と宗教と制度と思想と幻想と

そんな何もかもをごった煮にして待つ

ひそかな産声を




入睡


乌鸦在远处聒噪

没完没了

深更半夜是有何事

洗衣机在某处呜呜呜

天棚传来啪啪的诡异声响


黑色的时间在房屋外扩展

理应被生命满足的

却让人想起VOID这个英语词

(尸首的头发长长指甲长长)


世界从何时变成这种结构了呢

失眠的时候听到深夜的声音在心中

变成不合逻辑的音乐


*


没有想说的

却爬起来在纸上写下一行行文字

是因为想让语言像石块一样滚动


泛滥的意义在暴力面前无能为力

包括眼泪

和沉默

(胎儿长出头发长出指甲)


可是,潜伏于语言中的寂静

有时成为笑料

有时毫无意义

有时伪装成歌曲

引诱人往此生的边缘……


*


在深深的性高潮记忆里苏醒的世界

存在于与这个现实的不同次元

宛如岩浆


在熔炉中似梦非梦

把人种、宗教、制度、思想、幻想和

种种混在一起变成大杂烩

等待那神秘的第一声啼哭




二×十


この星から零れる言論の塵芥の上に

詩の朝靄が物憂げに漂っている


あの日指先で触れた頬

いまは白紙の上の一行でしかない


舌は語らずに舐めている

目が見損なってきたものを


心の忘れ去った一瞬一瞬が

魂に降り積もっていく(だろうか)


言葉の細道を歩き疲れて

沈黙の迷路に座りこみ 笑う


一語の深度を辞書は計れない

知性の浅瀬に語彙が散らばっている


言語は皮膚 現実の肉に貼り付く

詩は内視鏡 内臓の冥さに立ちすくむ


比喩の度し難い絢爛のあと

沈黙がし残したこと


意味が意味を呼んでいる

夕暮れの心細さに耐えかねて


夜はどこまでも更けていって

明日はその底で微かに薫っている




二×十


在这个星球洒落的言论尘埃之上

无精打采地飘浮着诗歌的朝霭


那天手指触碰过的脸颊

现在只是白纸上的一行文字


舌头静默地舔舐着

眼睛看错的东西


心忘却的一瞬一瞬

落在灵魂上堆积着


在语言的小道上走得精疲力竭

坐在沉默的迷途发笑


字典测不出一个单词的深度

词汇散乱在知性的浅滩


语言是皮肤,粘在现实的肉上

诗歌是内视镜,在内脏的暗处动弹不得


在譬喻不可救药的绚烂之后

沉默中途收场


意思呼唤着意思

忍受不住黄昏的孤独


夜越来越深

明天在底层冒出淡淡的烟



庭を見つめる


私は知っている

君が詩を読まなくなったことを

書架にはかつて読んだ詩集が

まだ何十冊か並んでいるが

君はもうそれらの頁を開かない


その代わり君はガラス戸越しに

雑草の生い繁った狭い庭を見つめる

そこに隠れている見えない詩が

自分には読めるのだといわんばかりに

土に蟻に葉に花に目をこらす


「サリーは去った いずくともなく」

声にならぬ声で君は口ずさむ

自分の書いた一行か

それとも友人だった誰かのか

それさえどうでもよくなっている


言葉からこぼれ落ちたもの

言葉からあふれ出たもの

言葉をかたくなに拒んだもの

言葉が触れることも出来なかったもの

言葉が殺したもの


それらを悼むことも祝うことも出来ずに

君は庭を見つめている




盯着院子看


我知道

你已不再读诗

书架上曾经读过的诗集

几十册陈列着

可是,你不会再去打开那些书页


取代的是你透过玻璃窗

盯着看杂草丛生逼仄的院子

几乎要说自己能理解

隐藏于那里看不见的诗

对着土、蚂蚁、叶子和花朵凝视着


“莎丽离开,不知去向何方”

你用不能成为声音的声音哼出

是自己写下的一行

还是哪位朋友写下的呢

总之都在变好


从语言洒落的

从语言溢出的

顽固拒绝语言的

语言无法触摸的

语言扼杀的


对这些不能哀悼又无法祝福的东西

你盯着院子看




詩人の亡霊


詩人の亡霊が佇んでいる

廃屋の雨滴の伝わる窓硝子の向こうに

文学史の片隅に名を残しただけでは満足せず

女を死に追いやっただけでは満足せず

あの世に安住するのを潔しとせずに


もう声をあげることは出来ないが

数々の文字と化して彼はいる

新旧の図書館の地下の書棚の奥で

いまだに親友と名声を競いあっている

ついに詩の問いかけに答えられずに


彼は青空の心を読んだと信じた

小鳥の囀りの理由を知ったと信じた

鍋釜のように人々とともに暮らし

叫びと囁きにひそむ静けさを会得したと信じた

一滴の汗も血も流さずに


詩人の亡霊の隣にいるのは犀の亡霊

訝しげに隣人の顔をのぞきこむ

犀は詩人も同じ哺乳類だったことを知らない

人よ どうか子守唄を歌ってやってくれ

親しい死者と詩人を区別せずに




诗人的亡灵


诗人的亡灵伫立着

对着空屋传来滴答滴答的玻璃窗外

不满于自己的名字只是留在文学史的一角

不满于只是把女人逼到了绝路

对来世的安于现状感到愧疚不安


虽然已不能再发出声音

但化成文字的他却存在着

在新旧图书馆地下的书架深处

仍与挚友争夺着名声

终于无法再回答诗的问题


他相信自己读过蓝天的心

也相信懂得小鸟啾鸣的原因

像锅灶般与人们一起生活

相信已领会了隐藏在喊叫和细语里的静穆

不流一滴血和汗


诗人的亡灵旁边是犀牛的亡灵

纳闷地窥视着邻人的脸

不知道与诗人同是哺乳动物的犀牛说:

人啊,请你给我唱一首摇篮曲

不要区别亲密的死者与诗人




詩の擁護又は何故小説はつまらないか


「詩は何もしないことで忙しいのです」

——ビリー・コリンズ(小泉純一 訳)

初雪の朝のようなメモ帳の白い画面を

MS明朝の足跡で蹴散らしていくのは私じゃない

そんなのは小説のやること

詩しか書けなくてほんとによかった


小説は真剣に悩んでいるらしい

女に買ったばかりの無印のバッグをもたせようか

それとも母の遺品のグッチのバッグをもたせようか

そこから際限のない物語が始まるんだ

こんぐらかった抑圧と愛と憎しみの

やれやれ


詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ

小説はそんな詩を薄清者め世問知らずめと罵る

のも分からないではないけれど


小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で

抜け穴を掘らせようとする

だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば

子どものころ住んでた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ

柿の木なんぞといっしょに

ごめんね


人間の業を描くのが小説の仕事

人間に野放図な喜びをもたらすのが詩の仕事


小説の歩く道は曲がりくねって世問に通じ

詩がスキップする道は真っ直ぐ地平を越えて行く

どっちも飢えた子どもを腹いっぱいにはしてやれないが

少なくとも詩は世界を怨んじゃいない

そよ風の幸せが腑に落ちているから

言葉を失ってもこわくない


小説が魂の出口を探して業を煮やしてる間に

宇宙も古靴も区別しない呆けた声で歌いながら

祖霊に口伝された調べに乗って詩は晴れ晴れとワープする

人類が亡びないですむアサッテの方角へ




维护诗歌兼及小说何以无聊


诗歌因无所事事而忙碌

―比利·柯林斯(小泉纯一 译)

用MS明体的足迹

把初雪早晨般洁白的记事本画面踢散的不是我

那是小说干的

只能写诗真的是太好了


小说好像认真地苦恼着

让女人拎着刚买回的无印牌皮包好呢

还是让她拎着母亲遗留下的古驰牌皮包呢

从此,没完没了的故事就开始了

复杂化的压抑和爱憎

不可开交


诗有时忘我地轻飘飘浮游在空中

小说谩骂这样的诗是薄情寡义或不谙世故

并不是不能理解


小说用几百页的语言把人关在笼子里后

然后就挖掘逃路

但是,要说首尾呼应挖通的洞口是何地

那便是孩提时住过的胡同深处

诗歌吊儿郎当地伫立在那里

与柿树等一起

说着对不起


描写人的行为的是小说的工作

给人带来无数欢喜的是诗的工作


小说走的路蜿蜒曲折地通向人间

诗连蹦带跳走的路越过笔直的地平线

二者都无法让饥饿的孩子吃饱

但至少诗不怨恨世界

因为幸福的风吹进了肺腑

即使丧失语言也不害怕


小说在找灵魂出口急得发疯时

诗用不分宇宙和旧鞋子的懒洋洋声音唱着歌

在用祖先神灵口耳相传的歌曲中兴高采烈地穿越时空

朝着人类不会灭亡的方向



「詩人の墓」へのエピタフ


無限の沈黙である私は

お前に言葉を與へてやらう。

——「神が人間を考へる」ジュール・シュペルヴィエル 中村真一郎 訳

生まれたとき

ぼくに名前はなかった

水の一分子のように

だがすぐに母音が口移しされ

子音が耳をくすぐり

ぼくは呼ばれ

世界から引き離された


大気を震わせ

粘土板に刻まれ

竹に彫りつけられ

砂に記され

言葉は玉葱の皮

むいてもむいても

世界は見つからない


言葉をなくして

そよぐ木々になりたかった

十万年前の雲になりたかった

鯨の歌になりたかった

今ぼくは無名に帰る

目と耳と口を泥にふさがれ

指をもう星に預けて




朝向“诗人之墓”的墓志铭


无限沉默的我

将语言给予你

——苏佩·维埃尔《神思考人类》(中村真一郎 译)

出生时

我没有名字

像水的一个分子

可是,母音很快被口授

子音搔着耳朵

我被召唤

从世界分离出去


让大气震颤

镌刻在黏土板

雕镂在竹子上

记载在沙上

语言是洋葱皮

剥掉一层又一层

也看不到世界


丢掉语言

我想变成摇动的树木

变成十万年前的云朵

变成鲸鱼的歌声

此刻,我回归无名

眼睛、耳朵和嘴巴被泥土堵住

已把手指托付给星星




言葉だけに


——呈 中也

言葉だけになってしまって

山はぼうっとうずくまってる

港は薄曇った空の下

何事か思案している


他処の国でもそうなのだろうか

海は淡々と陸と陸を隔て

罪人たちの深い嘆きの感嘆詞さえ

言葉だけになってしまって


転んでもただで起きない商人は

電子まみれでバスタブにいる

大昔に書いた恋文も

言葉だけになってしまった


緊縛された若い女の首筋に

青い静脈が浮いている

言葉だけになってしまって

詩は世界から剥落しかけて……


嘘だ!嘘だ!

何が言葉だけなものか!

太腿を脇差で刺して

小姓は居眠りすまいとしたではないか!


―静けさだ

あとは静けさあるのみだ

案山子たちは尾羽打ち枯らし

藁の頭で瞑想し


どっかの家の食卓の

夫婦茶碗によそわれて

ご飯が湯気を立てている

ほのかに湯気を立てている




只变成语言

——给中原中也


只变成语言

山发呆地蹲下

港口在薄云的天空下

仿佛盘算着什么


别的国家也是这样吗

大海淡淡地隔开陆地

就连罪人们深深哀叹的感叹词

也只变成语言


即使跌倒也不白站起来的商人

待在充满着电子的浴槽里

很久以前写的情书

也只变成语言


年轻少女被紧紧绑住的脖子上

鼓起青筋

只变成语言

诗从世界渐渐剥落……


谎言!谎言!

说什么只属于语言之物

用短刀刺入大腿

那里不是侍童当作打瞌睡的地方吗!


——寂静

之后只有寂静本身

稻草人们落魄潦倒

用稻草的头冥想


往谁家饭桌上的

鸳鸯碗里盛饭

饭冒着热气

微微地冒着热气




音楽


穏やかに頷いて

アンダンテが終わる

二つの和音はつかの間の訪問者

意味の届かない遠方から来て

またそこへ帰って行く


幻のようにか細い糸の端で

蜘蛛が風に揺れている

それを見つめているうちに

フィナーレが始まる

最後の静けさを先取りして


考えていたことすべてが

時の洞穴に吸いこまれ

人はなすすべもなく生きている

せせらぎのように清らかに今

世界を愛して




音乐


温和地点头

行板结束

两个和音是刹那间的来访者

从意义无法抵达的远方而至

然后再返回原处


在幻影般纤细蜘蛛丝的一端

蜘蛛被风摇动

就在凝视它时

最终乐章开始了

抢先攫取最后的寂静


思考过的一切

被吸入时间的洞穴

人不知所措地诞生

仿佛潺潺溪流一样清澈的此刻

爱着世界




「音の河」

——武満徹に


音の河は樹木と樹木のあいだに流れている

積乱雲と玉蜀黍畑のあいだにも

たぶん男と女のあいだにも


きみはその伏流をぼくらの内耳に響かせる

ピアノでフルートでギターで声で

ときに沈黙で


音楽はいつまでたっても思い出にならない

この今を未来へと谺させるから

きみもいつまでもいなくならない


きみがこっちに置いていった服を着て

ぼくはそっちにいるきみの歌を聴く

ホールを囲む木立にゆっくり夕闇が下りてきて


言葉の秩序は少しずつ背景に退いてゆき

世界の矛盾に満ちた暖かい吐息を

ぼくらは耳元に感じる




“音之河”

——给武满彻


音之河流动在树木和树木之间

也流动在积雨云和玉米田里

大概也流动于男女之间


你让那股潜流响彻在我们的耳鼓

以钢琴以长笛以吉他以声音

有时也以沉默


音乐不管经过多久都不会变成回忆

因为此刻向着未来发出回声

你也永远不会消失


穿着你遗留在今世的衣服

我倾听着你在那来世的歌

暮色慢慢地顺着环绕大厅的树木落下


语言的秩序一点点地退回布景

我们在耳边感受到

世界充满矛盾的温情叹息




Where is HE?


姿が見えていた夏

声が聞こえていた秋

肩をたたくことのできた冬

そして二度と来なかった彼との春


だが彼はいまもなお繰り返し訪れる

沈黙の彼方から音を連れて

私たちの耳に


目に見えぬ世界からの波動に触れて

かすかに震える鼓膜

音の原子によって創られた

意昧を超えたもうひとつのリアル


そこに彼はいる

新しく生まれる音 甦り続ける声に

すこやかな耳をすまして




Where is HE?


见到他的夏天

听到他声音的秋天

能拍打他肩膀的冬天

然后,永不再来的他的春天


可是,他至今仍反复到访

从沉默的远方带来声音

传入我们的耳朵


触碰来自看不见世界的波动

微微颤动的鼓膜

被声音的原子创造

超越意义的另一个真实


他就存在于此

在新诞生的声音里,在继续复苏的声音里

用健全的耳朵倾听




《夢の引用》の引用


滴る水

…波紋の

静寂


音は

帰るところを

探している


影が

ひそやかに

近づき


波の胸騒ぎ

風の

動悸


獣の睦言

鉱物の

喃語


奈落を

覗く


突然の

道化と

王女


時が

句点を

打つ


記憶が

くすぐられて

微笑み


城と

庭園と

涸れた噴水


苦い

会話の

断片


立ち昇る何故に

答える

年輪


散乱する

電子にひそむ

神の無言


彗星の

尾のように

回帰する


魂の

木々の

ざわめき


人はどこ?

いつかこんなにも

遠く…


永遠を借景に

水平線の

祝祭


真空に

星の胎児の




“梦的引用”的引用


滴水

……波纹的

寂静


声音

在寻找着

归宿


影子

悄悄地

靠近


波浪的忐忑

风的

悸动


野兽的闺房话

矿物的

呢喃


窥视

地狱的

花朵


突然的

丑角

和女王


时光

打上了

句号


记忆

被搔痒得

微微笑


城郭与

庭院与

干涸的喷泉


苦涩的

谈话

片段


年轮

回答

站立的缘由


神的沉默

潜入散乱的

电子


像彗星的

尾巴一样

回归


灵魂的

树木的

吵嚷


人在哪里?

从何时变得如此

遥远……


借景永恒

水平线的

庆祝和祭祀


真空里

星星的胎儿的




「午後おそく」による十一の変奏


かたむきかけた日の光は

かしの葉のふちをいろどり

そのまま芝生にとけこむようだ


応接間の回転窓は

雲の小さなすがたみとなり

気よわく夕日に対している


今日もいちにち快晴

かたむきかけた日の光が

だんだん影をのばしてゆく

1950.1.9

*


かたむきかけた日の光に

子どもたちはいつか

散り散りにうちへ帰って行った

ベンチで老人は本を閉じて

歴史の暗がりから戻ってきたが

理性の光がきらめかせたのは

ギロチンをはじめとする

まがまがしい凶器のたぐいばかり

黄昏のけむるような薄闇にひそむ

あえかな恋の記憶に縋って立ち上がり

公園を出て老人は「ホーム」に戻って行く


*


木は空へと伸びてゆく

年輪に自分を記録しながら


ヒトも空へと背伸びし

宇宙にさまよい出てゆくが


その記録は年輪のような

中心をもたない


かたむきかけた日の光に

梢は天を指す金色の矢印


私は木に添いたい

中心にある誕生の瞬間が


垂直に宇宙へ通じていると

信じて


*


「あなたは素通しの硝子ね」

と女が言う

「光を自分の中にとどめておけないのよ

影が怖くて」


「きみは鏡だな」

と男が言う

「光をすべて反射してしまう

きみも影が怖いのかな」


かたむきかけた日の光をつくろうと

裏で照明さんは汗をかいている


「なんだか気恥ずかしい台詞ね」

と女が言う

「光は理性の暗喩のつもりかしら」


「とすると影は潜在意識だな」

と男が言う

「光も内臓にまではとどかない」


「目に見える光はね」

と女は言う

「でも目に見えない光は

どこまでも私たちを貫いてくる」


*


深い水底の午後

竜宮はひっそりと静まりかえっている

乙姫がみまかって既にひさしい

貝類はうす青く光を放ち

藻類はゆらゆらと潮に身を任せている

ここでは時は刻まない

ゆるやかに渦巻いてたゆたうだけ

時折どこかの艦のソナーがノックするけれど

竜宮の螺鈿の扉は閉じられたまま

ハルマゲドンを待っている


*


ティテーブルに小火器が置いてある

かたわらに半裸でチェロを弾いている男

よろい戸から黄ばんだ日差しがさしこんで

物語はこの場面では寛いでいるが

もうすぐ警官の一群がこの家を取り囲み

男はバルトークを練習しながら射殺される

……という筋書きに

作家(三六歳の女性)はもう飽き始めている

彼女の使い古した白いマックにも

物語の中と同じ黄ばんだ日差し

カウチで黒猫が丸くなっている


遠くから「夕焼け小焼け」のチャイムが聞こえてくる

物語の中ではなくこの詩の中でもなく

いまここでこれを書いている生身の私の耳に


*


「アフタヌーンティ」という店で

熱いチャイを飲みながら思った

意昧がヒトの心を黴のようにおおっている

むかし言葉はもっと無口だったのではないか

ただそこにあるだけだったのではないか

意味に打ちひしがれず 欠けた茶碗のように

流れているBGMとは違う音楽が

かすかに鳴っている

私の深みで


*


森の中で男の子らが騒ぎ出している

朝の質問に親たちも教師も答えてくれないから

木の間がくれの日の光に伸びてゆく影を

彼らは気づかずに読み解く

大人に頼ってはいられない

海に向かわなければ


昔話もお伽話も当てにはならない

森を出て石ころだらけの小道をたどり始めて

もう彼らは迷子になっている

草のあいだで小さなトカゲが見ている

巻雲の下からトンビが見ている

転んだ子を誰も助けない


海は遠くから語りかけてくるが

その意味を悟るには老いねばならない

頬の産毛が金色に輝くにつれて

男の子らの足どりはゆるやかになり

やがて立ち止まってしまう

女の子たちはどこにいるのか……


*


午後おそくやって来てその人は言う

「浜辺でこれを拾ったの」

大きめのおはじきのような薄青色の

波に磨かれて丸くなった硝子のかけら


「ありふれたものね」

でも美しい……限りなく美しいと感じるのと

その人は言う なんだか泣きそうな顔で


その人はもう若くはなくて

私ももう若くはなくて 共通の幼馴染が死んで

今夜がその通夜


なんでもないもの どうでもいいもの

存在する意味すら分からないもの

「そんなものに気持ちが寄っていってしまうの」

その声を聞きながら私は黒いネクタイを締めている


*


君の幻想の中でぼくはいったい誰なのだろう

波紋に揺れる水に映った顔は

本当にぼくなのだろうか


言葉は言葉へと頼りなげな触手を伸ばし

映像は明滅しながら闇に溶けていく

君の幻想の中でぼくは過ぎ去った午後を数える

金色の光に侵されたあの哀しみも

母の子宮から生まれてきたものなのだろうか


詩で答えてはならない問いがある

いつか君はぼくに向かってそう言った

君の幻想の中でそのときぼくは

いったい誰だったのだろう


*


「ながれをただよいくだりながら………

金いろのひかりのなかにためらいながら………

いのちとは、夢でなければ、なんなのだろう?」

(ルイス・キャロル・生野幸吉訳)


*


書き忘れていることがある と思う

多分綿埃のようなこと いや

何百万光年かなたの星雲のようなこと

書き忘れていることがある

手紙に?日記に?それとも詩に?


書き忘れていること

言葉の手前でふと立ち止まってしまったこと

それがあるのは どこ?

姿見に六十年前の芝生が映っている

ひとりの青年が歩いてくる


彼に話しかければ思い出すのだろうか

近寄って抱擁すれば 目をじっとのぞきこめば

罵れば 殴れば 刺せば それとも

書き忘れていることなどどこにもないのか

たとえ思い出したとしても




基于“傍晚”的十一个变奏


西斜的阳光

为橡树的叶缘涂上色彩

仿佛就此溶入草坪


客厅的旋转窗

变成云朵小小的穿衣镜

怯懦地映照着夕光


今天也是一整天的晴空

西斜的阳光

渐渐拉长了影子

1950.1.9

*


西斜的阳光中

孩子们不知何时

都各自回家去了

长椅上的老人合上书本

从历史的黑暗回到现实

可是使理性的光辉闪耀的

却尽是断头台之类

不吉利的凶器

潜入黄昏朦胧的幽暗

依附着梦幻般爱的记忆

老人走出公园踏上回“家”的路


*


树木向着天空生长

把自己记入年轮


人也向着天空踮起脚

开始在宇宙中彷徨


可那记录却不像年轮一样

有着中心


西斜的阳光中

树梢是指向天空的金色箭镞


我想紧靠着树

在中心诞生的瞬间


正垂直穿过宇宙时

我如此相信


*


女子说:

你是透明的玻璃呢

光无法停留在自身中啊

因为害怕影子


男子说:

你是镜子啊

光会反射所有

你也会害怕影子吧


想创造出西斜的阳光

灯光师在后面正流着汗水


女子说:

真是让人害羞的台词啊

光说不定是理性的隐喻


男子说:

那么影子便是潜意识啰

光也无法抵达内脏


女子说:

那是看得见的光吧

但看不见的光

始终贯穿着我们


*


深海的午后

龙宫阒寂无声

龙女早已仙逝

贝壳泛着淡蓝的光

海藻随着海水摇晃

这里没有时间的印记

只有缓缓呈涡状的晃动

有时,不知哪里的军舰声呐来敲门

但龙宫螺钿的门扉却依旧紧闭

等待着世界末日


*


茶几上放着小火盆

旁边是拉着大提琴的半裸男子

泛黄的阳光从百叶门射入

故事在这样的场景下展开

不久一群警察就包围这个家

正在练习巴托克作品的男子被射杀

……对这样的故事大纲

作家(三十六岁女性)已经开始厌倦

她用旧了的白色苹果电脑上

也洒满了和故事中一样泛黄的阳光

睡椅上黑猫蜷缩着


听到从远处传来“晚霞夕照”的管钟声

不是在故事中也不在这首诗中

而是在此时此地写下这些文字时,我肉身的耳中


*


在一家叫作“下午茶”的店里

我一边喝着热茶一边思索

意义像霉一样笼罩人心

以前语言不是更沉默的吗

不是只存在于那里的吗

不被意义所摧垮,就像有缺口的碗一样

不同于正在播放的背景音乐的乐曲

隐约响起

于我内心深处


*


男孩子们在森林吵嚷着

因为清晨的提问得不到父母和教师的回答

他们没有觉察地解读

树间因暮色而拉长的影子

不要依赖大人

就必须走向大海


传说和童话也都是瞎扯

走出森林一踏上满是碎石的小路

他们就已变成迷路的孩子

小蜥蜴在草丛中看着

老鹰从卷云下看着

跌倒的孩子无人扶起


海从远方搭话

但它的意思只有老了才能领会

随着脸颊上的胎毛泛起金色的光辉

男孩子们放慢步伐

终于停下脚步

女孩子们到底在哪里啊……


*


午后姗姗来迟的人说:

“在海边捡了这个。”

大小如玻璃弹珠

被海浪磨圆的淡蓝色玻璃碎片


“随处可见的东西啊。”

但是好美……觉得是无限的美

那人说着,一副快要哭出来的表情


那人已不再年轻

我也已经不再年轻,儿时共同的玩伴死了

今晚是灵前守夜


那些微不足道的、无关紧要的

甚至不知道存在意义的东西

“感情都寄托在它们上面了。”

我听着那声音系上了黑色领带


*


在你的幻想中我到底是谁

映在摇曳水波中的脸

真的是我吗


语言向语言伸出无依无靠的触手

映像闪烁着溶于黑暗

在你的幻想中我数着度过的下午

被金色之光浸染的哀伤

也是从母亲的子宫里诞生的吗


你曾经对我说过

有些问题诗不要回答

在你的幻想中,那时的我

究竟是谁呢


*


“在水流中漂流而下……

在金色阳光中徘徊不前

生命若不是梦,那又是什么呢?”

(刘易斯·卡罗尔,生野幸吉 译)


*


我想,一些忘记写下的事

大概都是像尘絮般的事,不

是数百万光年之外的星云一样的事

那些忘记写下的事

在书信里?在日记里?还是在诗里?


忘记写下的事

在语言面前突然停下脚步的事

如果有,它在哪里?

穿衣镜里映出六十年前的草地

一个青年独自走来


和他攀谈就能想起吗

走过去拥抱呢 还是凝视呢

谩骂呢 殴打呢 刺他呢 还是

并没有什么忘记写下的事吗

即使已经回想起来了

田 原 译




浪 漫 主 义 的 积 极 准 备

我已经描写过,浪漫主义是怎样从消极方面,即逃避现实和任性方面,由较古的文学、由歌德和席勒开创先河,而且它植根在怎样的生活环境之中。现在我们将要看到,浪漫主义另外又怎样从积极方面由它的前驱们充分做了准备。
我们还来谈谈《罗凯洛尔》吧。且不论这个人物身上所具有那些异想天开的特殊色调,单问他的基础是什么?他的基础是热情,即德国人所谓的热情的“奔放” 、自由感觉和慷慨激昂。只有这种情感才是歌德和席勒的青年诗作中所表现的现代德国文学的出发点。这些诗作带有同样一种泰坦式的反抗情绪。它们是同样一种对立的表现。它们是革命的爆发,也是革命的试验。歌德的戏剧《兄妹》就是以兄妹之间的爱情来做试验的。他的《斯苔拉》在初稿中是以辩护重婚作结束的,让·保尔在《西本克斯》中同样把重婚写成仿佛可以容许天才干的事情,如果他觉得第一次所承担的义务不堪忍受的话。《葛慈》是一个天才在同颓唐而腐败的时代作争斗中的悲剧毁灭。席勒的《强盗》连同它的扉页题词In tyrannos ,以及它所引用的希波克拉特斯的警句:“药治不了的,要用铁器;铁器治不了的,要用火”,都是反对社会的宣言。卡尔·穆尔是一个豁达大度的理想主义者,他在这“被阉割的时代”必然作为一个罪犯而毁灭。席勒笔下的强盗根本不是打家劫舍之辈,而是革命者。他们并不劫掠,但要惩罚人,他们并不针对职位,而是针对特权,他们同社会隔离开来,对社会加在他们身上的不义进行报复。革命在认真爆发前八年,就已在席勒的《强盗》中演出了它的强盗式的游戏了。不过,席勒的泰坦式的反抗在他早期的诗作中表现得更有个人特色,那些诗作都是在他同封·卡尔布夫人交往中所产生的灵感下写成的。普通版本所收入的,都是经过改写的,已经面目全非了。必须在库尔茨或戈尔德克的选本中去重读它们。后来改名为《斗争》、原来题作《热情的奔放》的那首诗这样写道:
这阵战栗,这无名的恐惧从何而来,
当你用多情的手臂拥抱我的时分?
是因为哪怕动一动就会破碎的誓言
把闻所未闻的桎梏强加你身?

是因为为法律打上神圣印记的仪式
使偶然的严重恶行化为神圣?
不,——我要大无畏地抗拒
面红耳赤的自然所懊悔的联姻。

哦不要战栗——你作为罪人已发过誓,
伪誓乃是忏悔的虔诚本分,
你献给神坛的心是属于我的,
上天不会捉弄人间的欢欣。
尽管这天真的诡辩听起来很奇怪,尽管上天未必经常允诺自己一点也不作弄人间欢欣,这里所反映的倾向却是确切无疑的;而且正如黑特纳(卷3,第375节)中肯地指出过,堂卡洛斯也说过同样的话:“我的爱情的权利要比神坛前的仪式更为古老。”因为《堂卡洛斯》(此剧曾经按照席勒各个时期的主导激情修改过三次)在第二次草稿中就是以抨击结婚为主旨的。
席勒笔下的年轻女皇伊丽莎白的原型,就是夏洛特·封·卡尔布。这位女士是席勒年轻时代的情人,她的父母曾经强迫她同别人结了婚。1784年席勒才结识她,1788年他们还想把他们的命运永远结合在一起。席勒这时在家里收容了可怜的荷尔德林,因为他由于同房东太太苏塞特·贡塔德的恋爱关系,不得不放弃他在法兰克福的家庭教师的职位。席勒离开了封·卡尔布不久,她就成了让·保尔的情人。(卡洛琳娜·施莱格尔把她戏称为“让奈特·保琳娜” )。让·保尔这样描写过她:“她有两件大东西:一双我还从未见过的大眼睛和一个伟大的灵魂。”他承认,他曾经把她写成泰坦型的林达,借以同罗凯洛尔相对照。在《泰坦》(第118节)中这样谈到林达,对她一定很宽厚一些,“不但因为她十分柔弱,还因为她非常憎恶婚姻。”她从不能陪伴一个女友到婚礼祭坛前去,她把它称作妇女自由的刑场,最美最自由的爱情的火葬场,并且说,到那时爱情的英雄诗充其量变成了婚姻的牧歌。她的聪明的女友向她指出(第125节),她之所以憎恶婚姻,当然只不过因为她憎恶“教士”罢了,——难道婚姻关系不就是永久的爱情吗,难道所有的爱情不都有权认为自己是永久的吗?——还说,不幸的爱情故事即使不比不幸的婚姻更少,那也是一样多,等等,但是这些话都没有使林达信服。封·卡尔布夫人本人给让·保尔这样写道:“何必要三句不离勾引呢?我请求您,宽恕这些可怜虫吧,不要再折磨它们的心灵和良知了。自然已经是够死硬的。我决不会改变我对这个问题的想法。我不懂得这种德行,也不能说某人有了它就会幸福。人世间的宗教,无非是为了发展和保存我们天性所具有的力量和才具而已。人不应当屈服于任何强制,但也不甘心于任何不公正的忍从。让勇敢、健壮、成熟的、认识并且运用自己力量的人类随心所欲吧;但是,我们这一代的人类却是贫困而可悲的。我们的法律都是最悲惨的鄙陋与匮乏的产物,很少是智慧的产物。爱情不需要任何法律。”
在这封信里,有一个伟大而强悍的心灵在讲话。从这里跃进到《卢琴德》的观念并不算远,但是从这里跌落到《卢琴德》的平凡的实践却是很深的。不过,这些偏激言论也并不难理解,如果我们看一看它们所产生的社会关系,并且认识到它们决不是孤立的零碎的偶然的控诉,而是由诗人气质对于当时社会的一般关系所决定的。德国古典作家的大本营和麇集地当时就在魏玛。一个小公国的一个小城镇居然能够这样显赫,是不难理解的。德国当时有两大邦君,一个是约瑟夫二世,他太专心于他的理性主义的改革运动,太热衷于启蒙运动,因而对德国诗文没有一点兴味,另一个是普鲁士的伏尔泰派的弗里德里希,众所周知,他的趣味和精神倾向是过于法国化了,对于德国的作家也没有兴味。只有这个小朝廷才对他们有所眷顾:席勒在曼海姆找到他的庇护所,让·保尔在哥达,歌德则在魏玛。长期以来,德国的诗歌创作没有集中起来。现在魏玛成为它的中心。歌德把赫尔德和维兰德邀请到了那里,并为席勒在附近的耶拿谋到一个职位。魏玛因此成为这样一个地方,不论从实际上还是从理论上说,人们都最无顾忌、最无偏见地把激情尊奉为同社会传统相对立的诗。“啊,这里有女人!”让·保尔来到魏玛,就这样叫喊起来,“这里一切都有革命的勇气,女人结婚没有任何意义。”维兰德为了“恢复元气”,把他早年的情人拉·罗施带到了家里。席勒邀请封·卡尔布夫人一同到巴黎去旅行。
歌德这个人一到魏玛,就带来了整个的狂飙突进时代。很难设想有比这个社会更奇特、更活泼的社会了:公爵夫妇十八岁,歌德二十六岁,公爵夫人阿玛莉即卡尔·奥古斯特的母亲刚三十六岁,都充满了最放荡的生活欲望。这个宫廷的灵魂就是歌德,他以青春的豪放风度,领着这一圈人从事游艺、宴会、远足、赛跑和假面会等赏心乐事,把他们弄得晕头转向,兴高采烈,放肆地享受着自然的欢悦。这一切掺杂着多少有点轻佻的桃色事件,时而显得明媚,时而又显得“晦暗”。让·保尔给他的朋友写信说:他只能口头描述魏玛的风尚。试想一下,连滑冰都被魏玛的高贵市侩们视作丑行,那么对于老维兰德的这句乖戾的说法——人们似乎一心只想“把兽性兽性化”——就不会感到奇怪了。温柔而宽宏的风流女人封·斯坦因夫人就这样整整当了十年歌德的女神,她就是他的莱奥诺雷和伊芙琴尼亚的原型。后来,歌德让那朵“像星星一样发光、像小眼睛一样美丽”的小花儿克里斯蒂安娜·符尔皮乌斯住在家里,和他同居了十八年,然后才经过教会的祝福宣布结婚,这就更加闹得满城风雨了。席勒同夏洛蒂·封·伦格弗尔德结了婚,可是她的妹妹卡洛琳娜(她才是席勒的“理想”,他由衷地感到同她情投意合)却离开她的丈夫,也搬到他家来了。所以,可以理解,让·保尔到了魏玛,在封·卡尔布夫人的人格的感召下会叫喊起来:“从许多事情可以断定,一场比政治革命更伟大、更神圣、但同样可怕的革命正在世界的心脏里跳动着。”
是什么样的革命呢?把情感从社会风尚中解放出来,心灵无礼地坚持有权把它的法典视作新的道德法典,并按照品行、有时仅仅按照偏好来改造习俗。此外,人们再也不要什么,再也不想什么。他们心目中并没有实际的或社会的改革。表面上总是拜倒在他们公开抛弃或者悄悄回避的每条规则面前,这就是德国人的性格。例如,不单是年长的歌德在直截了当的谈话中一再强调:保持两性共同生活的现存形式,乃是文明之所绝对必需,而且一般作家在自己的作品中,先是到处发表他本人多少赞同的革命思想,接着又在末尾把它们一一取消,因为主人公不是承认他的错误,就是自杀,或者由于反抗而受到惩罚,或者以看破红尘而告终(如卡尔·穆尔、维特、塔索、林达),正如中世纪的异教作家在末尾往往添上一道告白:不言而喻,本书所写的一切,应当按照圣母教会的教义来理解。
人们称之为“穿裙子的风暴”的封·斯塔尔夫人,一来到德国,就加入了魏玛这个才女圈子。她在她们中间显得就像一只古怪的野鸟。她们的倾向和她的同感相去多远啊!对于她们来说,一切都是个人的 ,对于她来说,一切都是社会的 。她曾经挺身而出,她曾经为伟大的社会改革作殊死战。这些人文主义时期的德国妇女,即使再怎样活跃,但要她们像她这样,都未免有嫌朴拙。斯塔尔夫人要从政治上改革生活,而她们却意在使生活诗意化。她们中间没有一个能有向拿破仑扔手套的念头。一位夫人的手套,是爱情的保证品,怎么能派这样不相称的用场呢!她们并不懂得人的权利,她们只熟悉心的权利;她们并不反抗生活的不公正 ,她们只反抗生活的散文 。社会和天才个人之间的关系,在这里并不像在法国那样,并不采取个人的革命的自由和社会的传统的强制性之间的斗争形式,而是采取个别人的愿望作为诗 和政治 与社会规范作为散文 之间的斗争形式。因此,浪漫主义文学不断称颂愿望的能力和力量,这特别是弗·施莱格尔经常提到的一个主题。实际上,这是一般人所具有的独特的向外发展的力量,是一种被理解为力量的软弱无能。我们在克尔恺郭尔的《或此或彼》中找得到同样对于愿望的惊叹:“欧伦施莱厄的《阿拉丁》之所以那样令人心旷神怡,是因为这首诗在最不可思议的愿望中具有一种巧妙的、天真烂漫 的勇气。在我们这个时代,多少人真正敢去愿望呢?等等。”天真烂漫,又是天真烂漫!可是,愿望——宗教之母,无为的别称,竟然成为浪漫派的标语,又有谁会感到惊讶呢?愿望在这里就是诗,社会是散文。连伟大的德国诗人最明净、最洗练的作品,也只有从这个观点来读,才能读得懂。歌德的《塔索》写出了政治家和诗人之间的斗争,即现实与诗的斗争,描绘了二者之间的对立,这二者相互补充,但并不相侔,“因为自然并没有把这二者构成一个人”;这部作品虽然具有玲珑剔透的形式和来之不易的忍从精神,却正是这种长期酝酿过程的产物,这一过程同时为浪漫派提供了全部的酵母。《威廉·迈斯特》的题材也并不两样。就是这部作品,它所描写的也不过是诗的理想与真实的现实之徐缓的和解和结合。但是,只有最伟大的天才才能够达到这样的高度,大多数卓越的、但努力方向不明确的诗人却滞留在这种不和谐之中。而且,诗越是把这种不和谐当做一种力量来意识,诗人越是感觉到他自己的尊严,文学越是成为一个带有独特的专门兴趣的自在的小世界,那么,反抗现实的斗争便越是采取一种反庸俗斗争的次要形式(例如,参见艾亨多夫的戏剧《同市侩作战!》)。所以,诗的任务不在于维护自由的永恒权利,去反抗外部环境的暴虐,而在于使自己成为诗,去反抗生活的“散文”。这就是日耳曼人、德意志-北欧人关于诗之解放作用的真正经过反思的文学见解。
克尔恺郭尔(在他的关于嘲讽概念的文章中,第222页)说过:“我们必须记住,蒂克和整个浪漫派是在同这样一个时代打交道,或者相信在同它打交道,人们在那个时代里仿佛完全僵化在有限的社会环境中。一切都完美无缺,都终结在一种神圣的中国式的乐观主义中,没有任何合理的憧憬不被满足,没有任何合理的愿望不被实现。风俗习惯的庄严信条和格言乃是虔诚崇拜的对象;一切都是绝对的,甚至就是绝对本身;禁止一夫多妻制,人们戴着尖帽子走过来,一切都包含着意义。人人都感到自己有随着地位而变化的威风,不管他有多大的成就,不管他孜孜不倦的努力对他本人和整体有多大的意义。不按钟点办事,人们就不能像教友派那样心安理得地过日子;让他无意间去犯不管时间的罪过,都不可能。一切都平平稳稳,按部就班地进行,甚至去求婚的人也是这样;因为他知道,他正在依法办事,正采取人生最严肃的一步。一切都准时发生。夏至节,都拥到大自然中去;忏悔祈祷日,都为罪孽深重而悔恨;满了二十岁就要恋爱;十点钟就得上床。结了婚,就为自己的家室、为自己在国家中的地位而生活;有了孩子,就一心顾家了;到了壮年,由于善行而获得高位,并同传教士友好往还;在传教士的眼前,他们做出种种慷慨豪爽的事迹,足以构成身后的美名,他们知道有朝一日,他会怀着激动的心情,结结巴巴地念叨这些美名的;他们是真正意义上的朋友,一个真正的朋友,正如他们是真正的评议员。”
我认为,这段描写本身并不是在谈历史。除了现在不戴尖帽子,改戴圆帽子这一点,我不明白,描写1893年的这段话为什么适用于其它任何时代,而不适用于我们今天。它并没有专指某一个时代。没有,我们今天的特征不过在于才子们、浪漫主义者们对于庸俗性的理解。他们从哲学上把它理解为有限,从智力上理解为褊狭,并不像我们从道德上把它视作鄙陋。他们把它同他们自己的无限憧憬相对照。他们用他们自己的青春的诗抵抗它的散文,正如我们用男性的意志抵抗它的卑劣一样。因此,他们想凭借他们的憧憬和思想,脱离社会和现实,这可以视作普遍的规律。不过,例外的是,如前所述,他们即使不能实现他们的人生理想,也一再试图草拟出(就像猜谜一样),怎样才能把现实改造得完全化为诗。
这里看不见一点愤怒的火星,或者一丝创新的精神,像法国浪漫主义作家(例如乔治·桑)身上所表现的那样,他们仅仅构想一些革命的、或者至少是惊世骇俗的观念以自娱。




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